6233 東証スタンダード(機械)
KLASS
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事業内容(レポートから抜粋)
職人の技術の自動化・省力化のノウハウを競争力の源泉とするFA機器メーカー
KLASSは、機械化が困難とされる職人技術の自動化・省力化を実現するFA機器のメーカーである。
畳製造装置や自動壁紙糊付機が同社の主力製品であり、これらの開発を通じて培われたコア技術を活かし、二次電池製造装置等のハイテク機器や食品機器の開発・製造に事業領域を広げている。
なお、KLASSは23年2月に、設立80期目となる28/9期を最終年度とする中期ビジョン「ビジョン80」を公表し、従来の「開発型機械メーカー」から機械(ハード)だけでなくソフトやサービスも提供する「2.4次産業型企業」へのシフトを明確にしている。23年10月の「極東産機」から「KLASS」への社名変更も、この「2.4次産業型企業」へのシフトを視野にいれてのことである。
KLASSの事業は、プロフェッショナル、コンシューマ、インダストリー、ニュー・インダストリーの4つの報告セグメントに区分される。
住宅分野の動向との連動性が高い畳関連やインテリア関連が中心のプロフェッショナルセグメントが、売上高の7割超を占める状況が続いている。一方、住宅分野の動向の影響を受けにくいインダストリーセグメントが全体の増収を牽引しており、23/9期になって最大の利益を創出するセグメントとなった。
子会社買収により21/9期に新設されたニュー・インダストリーセグメントは、顧客業界である自動車業界での生産台数の増加を背景に、23/9期に初めて黒字となった。一方、コンシューマセグメントは、21/9期以降セグメント損失が続いている。
(2024年3月22日時点)
沿革(レポートから抜粋)
同社の前身は、代表取締役社長の頃安雅樹氏(以下、雅樹氏)の祖父である頃安長三氏(以下、長三氏)が1939年に東京都江戸川区にて個人事業として創業した東京畳機製作所である。頃安家は、兵庫県の龍野で畳床製造を家業としていたが、次男だった長三氏は、家業そのものを継ぐわけではなかったものの、家業に近い分野で独立したということになる。
東京畳機製作所は、手回し式であった畳床製造の半自動化を実現した畳床製造機械(以下、製畳機)を製造していたが、太平洋戦争によりいったん廃業となった。
戦後の1946年、故郷の龍野に戻った長三氏は、個人事業で頃安畳機械製作所を設立し、製畳機の製造販売を再開した。その後、事業拡大を見越して1948年に法人化し、現在の同社となる龍野ギヤー製作所を設立した。
後に2代目社長となる頃安新氏(以下、新氏)は西芝電機(兵庫県姫路市)に勤めていたが、長三氏の娘と結婚し、後継者となるべく、1956年に代表取締役専務として同社に入社した。
新氏は、電機メーカーの下請けを積極的に行うことで機械メーカーとしての経験を積んでいくとともに、自身の業務経験を活かして大手電機メーカー並みの図面制作・管理を行うようにして、同社の開発能力を大幅に引き上げた。その結果、1963年に全自動製畳機「はりま号」を開発し、全国に販売していった。また、1965年に、同社にとって第1号特許となる「全自動マット縫機」を出願した。オリジナル製品の開発にこだわる現在の同社の源流を見出すことができる。
1960年代より日本の家屋の洋式化が本格的に進むにつれ、和室の減少を通じた畳の需要減が見込まれた。同社でもそうした外部環境の変化を見越し、製品の多様化を目指していった。その時に同社が注目したのが、洋室の増加により需要拡大が期待できる壁紙であった。
壁紙の施工には手作業を必要とする工程が多く、当時のインテリア業界は、需要拡大に対応できるだけの大量の壁紙を施工することができないという課題を抱えていた。そこで同社は、当時はどうしても手作業に頼らざるを得なかった糊付け工程の自動化を目指し、1971年に日本初の自動壁紙糊付機を開発した。また翌1972年には、自動で壁紙の長さを測る自動検尺機の販売を開始した。
同社は早くからコンピュータの有用性にも着目し、1981年にコンピュータ式畳用自動縫着装置を開発した。2年後の1983年には畳割付計算ソフトとオンラインで連携したコンピュータ式畳製造システムに進化させた。これは、職人の勘と経験によって畳製造を続けてきた畳業界にとって画期的なものであり、新氏は後に、本発明に基づいて数多くの表彰を受けることとなった。
新氏の長男の頃安雅樹氏は、1980年に科学技術庁(現文部科学省)に入庁した。当初、雅樹氏は同社の事業を承継するつもりはなかったが、新氏が病気で入院したことを機に事業承継を決意し、1988年に同社に入社して常務取締役に就任した。
1999年、雅樹氏は代表取締役社長に、新氏は代表取締役会長に就任した。
同社は、新氏が社長であった1990年代後半に上場を目指したことがあったが、1997年のアジア通貨危機等の混乱があり、叶わなかった。2000年代に入ってから世代交代が徐々に進んでいったものの、新氏の逝去に伴って開発部門の責任者が一線を退いたり、リーマン・ショックによる外部環境の悪化への対応が求められたりするなど、2000年代はなかなか前に進めない、もどかしい時期であったと言えよう。
同社が再度上場を目指すこととなったのは、企業体力がつき、組織全体の目指す方向が整ってきた14年のことである。
こうして、18年9月に東京証券取引所JASDAQ(スタンダード)への上場を果たした。
上場後も、20年にはロボットを使った自動化を得意とするファブレス企業である株式会社ROSECCをM&Aで子会社化するなど、事業規模拡大が続いている。
(2023年1月20日時点)